TOP コレクション展 主な収蔵作品

主な収蔵作品


ジャン=フランソワ・ミレー
  • ポーリーヌ・V ・オノの肖像
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪ポーリーヌ・V・オノの肖像≫ 1841-42年頃 油彩・麻布73.0×63.0cm

     1837年にパリに出て、画家となるべく勉強した若いミレーは、何度か故郷のシェルブールに戻り、生活の糧を得るために肖像画を多く手がけた。本作品はミレー初期の肖像画で、伝統的な手法が用いられている。ここに描かれているのはシェルブールの仕立屋の娘、ポーリーヌ・ヴィルジニ・オノ。華奢な姿であらわされた彼女は、ミレーの最初の妻となった女性である。二人は1841年に結婚したが、3年後、あまり体の丈夫でなかったポーリーヌは、22歳でこの世を去ってしまった。そのときミレーは29歳。二人の間に子どもはいなかった。

  • ダフニスとクロエ
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪ダフニスとクロエ≫ 1845年頃 油彩・麻布 82.5×65.0cm

     農民画を描いたことで有名なミレーだが、彼は物語にもとづく作品も制作している。本作品は、古代ギリシャの詩人ロンゴスによる牧歌的な恋愛小説『ダフニスとクロエ』の一場面を描いたものである。少年ダフニスと少女クロエは、ともに幼い頃にエーゲ海に浮かぶレスボス島に棄てられ、心優しい牧人たちに育てられた。その後、成長するにつれて二人は互いに愛し合うようになり、やがて結ばれることになる。本作品では二人は幼い子どもとして表現されている。ダフニスは森の中で横笛を吹いており、クロエは彼にもたれかかりながら釣り竿をたれている。

  • 眠れるお針子
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪眠れるお針子≫ 1844-45年 油彩・麻布 45.7×38.1cm

     1845年にミレーは、シェルブールで家政婦をしていたカトリーヌ・ルメール(1827-1894)と出会い、ともに暮らすようになる。以後30年、カトリーヌはミレーの良き伴侶となり、9人の子どもを育てた。本作品のモデルはカトリーヌとされる。この頃のミレーは、裸婦や可愛らしい女性をあらわした小品を多く制作していた。「裁縫をする女性」という画題はミレーが晩年まで好んで繰り返し描き続けたもののひとつ。裁縫の途中で眠りに落ちてしまった女性の右手中指にはめられた指ぬきや背後に置かれた静物など、細部まで表現されている。

  • 種をまく人
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪種をまく人≫ 1850年 油彩・麻布 99.7×80.0cm

     本作品は、パリを離れてバルビゾン村に移り住んだミレーがはじめて手掛けた大作。「種をまく人」という画題は、パリにいた頃からミレーの興味をひいていた。画面を占めているのは、左手で種の入った袋を握り、坂を下りながら右手で種をまく農民の堂々とした姿である。しかしミレーの絵は、当時の人たちが見慣れていた農民の姿とは、あまりにも違っていた。そのため、この作品がパリのサロンに出品されたとき、農民の力強い姿を称賛する人もいたが、保守的な人たちはこの絵を非難し、種をまく人を体制に異議申し立てをしている姿とみなした。

  • 落ち穂拾い、夏
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪落ち穂拾い、夏≫ 1853年 油彩・麻布 38.3×29.3cm

     ミレーは生涯に3度、四季連作を制作しており、《落ち穂拾い、夏》は最初の連作の「夏」にあたる。一般的にフランスでは小麦などの穀物の収穫は7月から8月にかけて行われる。そして収穫の際、刈った穀物を全て取り入れるのではなく、畑を持たない貧しい人びとのために、穂を地面に残しておく習慣があった。バルビゾンに移り住んだミレーは、聖書に登場する落ち穂拾いの行為をみて驚くと同時に、深く感銘を受けたとされる。収穫された穀物の大きな山を背景に描いているものの、ミレーは、落ち穂を拾う貧しい女性たちを主役に据えている。

  • 鶏に餌をやる女
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪鶏に餌をやる女≫ 1853-56年 油彩・板 73.0×53.5cm

     本作品では、農家の夫婦の日常生活が描かれている。頑丈そうな石の壁でできた家の戸口で女性が鶏に餌をやっている。餌は袋状にまとめたエプロンのなかに入っている。彼女の右手から下にこぼれ落ちる餌をめがけて鶏が集まっている。鶏もそれぞれ個性的に描かれており、離れたところからあわてて駆けつけるものもいれば、気づかないままのんびりしているものもいる。ここは家の裏庭。壁には農具が立てかけられている。柵の向こう側には、庭仕事をする男性の姿が見える。大きく育った庭の木に生い茂った葉は、陽光を浴びて輝いている。

  • 無原罪の聖母
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪無原罪の聖母≫ 1858年 油彩・麻布 79.0×45.0cm

     1857年4月にローマの鉄道省は、法王ピウス9世(在位1846-1878)のお召し列車の礼拝室を飾る聖母マリア像の制作をミレーに依頼した。与えられた時間はわずか2ヶ月あまりだったが、ミレーは期限内に完成させた。ローマ法王庁から与えたテーマは「無原罪の聖母」だった。「無原罪の聖母」あるいは「無原罪の御宿り」は、神の子であるキリストが宿る以上、聖母マリアも原罪を犯すことなく生を受けているはずという考えをあらわすものである。残念なことに、本作品は、崇高で美しいマリア像を所望した法王の御意には沿わなかった。

  • 夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い≫ 1857-60年 油彩・板 53.5×71.0cm

     ミレーは、1850年代から1860年代にかけて、「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」という画題を好んで描いていた。帽子をかぶった羊飼いは、寒さに耐えるかのように、厚手のマントの前をかき合わせている。従順な羊たちは、ひとつのかたまりとなって、羊飼いに続いている。牧羊犬を連れて羊の放牧をする羊飼いは、杖を持ち、マントをまとった姿で描かれる。羊飼いは、農民から距離を置かれた存在だったが、聖書の中では「聖なる賢者」として描かれていた。さまざまな知恵を有している人とされていたため、旅人が道を尋ねることもあった。

  • 古い塀
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪古い塀≫ 1862年 油彩・麻布 50.8×61.6cm

     ミレーが風景を描き始めた1862年頃の作品。バルビゾン村とフォンテーヌブローの森を区切る古びた塀と、そこから顔を覗かせる鹿が描かれている。塀の奥には、鬱蒼と茂る森が広がり、野生の鹿がこちらの様子をうかがっている。手前の平原には、明るい陽が射し、タンポポやカエルの生き生きとした様子と好対照をなしている。

  • 冬(凍えたキューピッド)
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪冬(凍えたキューピッド)≫ 1864-65年 油彩・麻布 205.0×112.0cm

     ミレーが手がけた二番目の四季連作のうちの「冬」にあたり、パリに新築する銀行家トマ邸の食堂装飾のために制作された。春は《ダフニスとクロエ》(国立西洋美術館蔵)、夏は豊穣の女神《ケレス》(ボルドー美術館蔵)、秋は天井画(焼失)となる。変形カンヴァスを用いているが、それは、食堂の暖炉の上に飾ることを目的としていたためである。本作品は、古代ギリシャの詩人アナクレオンの詩から着想を得ている。寒さに凍えながら雪の中を歩いてきたキューピッドが、暖かな部屋から出てきた女性と老人に助けてもらっている場面である。

  • グレヴィルの断崖
    ジャン=フランソワ・ミレー ≪グレヴィルの断崖≫ 1870年 油彩・麻布 24.0×33.0cm

     1870年7月にフランスとプロシア(現在のドイツ)とのあいだの戦争が勃発した。この普仏戦争の戦火を避けるため、同年8月に家族とともにバルビゾンを離れたミレーは、フランス北西部ノルマンディー地方の港町シェルブールに向かい、同地に半年ほど滞在した。本作品はその滞在の折に制作したものである。グレヴィルは、シェルブールにほど近いところにある海沿いの村。崖の下に広がっているのは英仏海峡である。友人で伝記作家のアルフレッド・サンシエに宛てた手紙から、9月から10月にかけて描かれたことが分かっている。

バルビゾン派・その他西洋美術
  • 木を伐り出す人々
    クロード・ロラン ≪木を伐り出す人々≫ 1637年 油彩・麻布 79.4×115.6cm

     フランス出身のクロード・ロラン(本名クロード・ジュレ。ロレーヌ地方出身のため「ロラン」と呼ばれる。)は、1627年の二度目のローマ行き以降、一度も帰国することなく、ここを終生の地とした。クロードの関心は空気遠近法的な効果に富む風景描写にあり、とりわけ朝夕の黄金色の太陽を背景にした港湾風景には定評がある。
     クロードの描く風景は演劇の舞台のようなものであり、現実とは異なる理想的な世界としてあらわされている。本作品においては、人びとが伐採した木を船に運び込ぶ、夕暮れのいささか寂しげな情景が表現されている。
     クロードは、『真実の書』と呼ばれる素描集を残しているが、これは、自分の油彩画にもとづく素描をおさめた作品目録である。本作品に対応する『真実の書』21番の素描には、「ナポリ」との書き込みがある。

  • Wooded Landscape with a View of the Bentheim Castle
    ヤーコプ・ファン・ライスダール ≪ベントハイム城の見える風景≫ 1655年頃 油彩・麻布 63.5×68.0cm

     ハールレムに生まれ、アムステルダムで歿したとされる。彼の修業時代については何も知られていないが、1648年にハールレムの画家組合に加入し、職業画家として認められている。1650年頃にドイツ西部を旅行し、山岳風景、巨大な森、河、丘陵、城などに感動して、のちの作品に反映させる。17世紀オランダを代表する風景画家であり、バルビゾン派をはじめとする後世の風景画家たちに多大な影響を与えた。
     ドイツを訪れたおよそ5年後に制作された本作品は、オランダ国境に近いウエストファリア地方の小さな村ベントハイムの城の風景を描いたもの。この城に強い印象を受けたようで、しばしばモチーフとして取り上げた。左手後景に茂った樹木のあいだからわずかに見える建造物が、城の小塔である。城の主要な建物は隠されており、本作品では、起伏の多い丘の斜面や、城へとつづく林道の様子が細かく表現されている。曲がりくねった小道には馬に乗った騎士、農民の男女、羊飼いと羊の群れがいる。

  • インヴェラレイ城の見えるファイン湾
    ジョセフ=マロード・ウィリアムターナー ≪インヴェラレイ城の見えるファイン湾≫ 1802-05年 水彩・紙 56.0×83.0cm

     ロンドンで生まれ、同地で没した。1789年にロイヤル・アカデミーの美術学校に入学、1790年に同アカデミーの展覧会に水彩画を初出品、1802年には正会員となる。若い頃から各地にスケッチ旅行に赴いており、1828年のイタリア旅行から1840年頃までに制作した風景画では、空気や光の様子を描きとめようとした。19世紀イギリスを代表する風景画家であり、印象派の画家たちにも多大な影響を与えた。
     本作品は、1801年の夏にスコットランドを訪れた際に制作したスケッチをもとにして、インヴェラレイ城を所有するアーガイル公爵の注文により制作したもの。ファイン湾はグラスゴーの北西約60キロのところにあり、南から北へ深く入り込んでいる。この入江に突き出した岬の上にインヴェラレイ城が見えるという景色を、ターナーは多くの鉛筆素描や水彩に残した。本作品ではいささか荒れて波の高い水面には舟が浮かび、白い鳥がそのそばを飛んでいる。

  • 森の中-夏の朝
    ジュール・デュプレ ≪森の中-夏の朝≫ 1840年頃 油彩・麻布 95.5×76.0cm

     フランスのナントの磁器工場の息子として生まれ、フランスのリラダンで歿する。1822年に磁器絵付職人として働きはじめたが、12歳頃から油彩画を学びはじめる。その後パリで絵の勉強をして、1831年のサロン(官展)に初入選する。1834年にイギリスを訪れ、イギリス風景画からの影響を受ける。帰国後は主にパリ近郊で制作した。特にルソーと親交が厚く、制作の面でも影響を受けた。1850年にリラダンに移り住み、終生そこで過ごした。
     1840年代のデュプレは、バルビゾンや旅行先で友人ルソーとともに制作を行っていた。ルソーの影響を受けた風景画を多く手がけている。本作品には画面いっぱいに背の高い木々が描かれている。枝や葉が絡み合って、ひとつの塊のようになっている。空には夏の青空が広がり、木々の下に広がる牧草地には、木々によって生みだされた影がおちている。くつろぐ牛たちも日陰の涼しいところを選んでいるのだろう。遠景を見ると牛の群れがはるか遠くにまでいることが分かる。

  • 市日
    コンスタン・トロワイヨン ≪市日≫ 1859年頃 油彩・麻布 115.4×175.5cm

     セーヴルで磁器職人の息子として生まれ、パリで歿する。早くから磁器工場で働き、絵付職人から絵を学んだ。1843年にルソーと知り合い、フォンテーヌブローの森で制作するようになる。1847年オランダに1年間滞在して、17、18世紀のオランダ人画家の作品にふれてからは、動物画を手がける。1849年にレジオン・ドヌール勲章を受章、1855年のパリ万国博覧会で一等賞を受賞した。没後の1867年のパリ万国博覧会では大回顧展が開催された。
     主題となっている定期市は、動物の売買や、遠く離れた都市からの情報を得る機会であった。フランスの地方での市の多くは、春か秋に、中世以来同じ場所で開かれていた。本作品では、動物画家として有名だったトロワイヨンにふさわしく、市に集まった家畜の様子がていねいに描かれている。なお、本作品は、川崎造船所初代社長で美術収集家の松方幸次郎が渡欧中に購入し、日本に持ち帰ったもので、1928年に国内で公開された。

  • フォンテーヌブローの森のはずれ
    ピエール=エティエンヌ・テオドール・ルソー ≪フォンテーヌブローの森のはずれ≫ 1866年 油彩・麻布 76.0×95.0cm

     パリで生まれ、バルビゾンで歿した。17世紀オランダ絵画や、イギリス風景画から影響を受ける。1833年にバルビゾンを訪れ、1836年には同地に定住する。多くのバルビゾン派の画家たちがパリを拠点として活躍したのに対して、ルソーはバルビゾン村に定住して風景画を描きつづけた。
     1831年にサロン(官展)への初入選を果たすものの、1836年から41年までサロン(官展)への落選が続いたため、「偉大なる落選王」と呼ばれた。その後、1849年のサロンで1等賞を受賞、1852年にレジオン・ドヌール勲章を受章、1855年のパリ万国博覧会で特別室で作品が展示されるなど、公的な評価を得た。バルビゾン派の指導者的存在で、ミレーやディアズと親しくしていた。
     本作品に描かれるのは、フォンテーヌブローの森のアプルモン渓谷と考えられる。そこは岩だらけの渓谷の頂に広がる牧草地のひとつで、水飲み場もあることから、放牧地として人気があった。ルソーは、1830年代に初めてバルビゾンを訪れて以来、アプルモン渓谷の景色を多く描いている。

  • 大農園
    ジャン=バティスト=カミーユ・コロー ≪大農園≫ 1860-65年頃 油彩・麻布 55.2×80.8cm

     パリの裕福なラシャ商の家庭に生まれ、同地で歿する。家族の反対もあり、画業に専念できるようになるのは26歳のときだった。古典主義の風景画家ミシャロンとベルタンに学び、1827年にサロン(官展)に初入選を果たす。三度にわたるイタリア旅行の他、フォンテーヌブローの森をはじめ、フランス各地を旅行し制作をおこなった。1850年頃からは、銀灰色を基調とした詩情あふれる作品を描いて人気を得た。1855年のパリ万国博覧会で大賞を受賞し、名実ともに評価を確立した。
     本作品は、1850年以降のコロー作品を特徴づける銀灰色を用いた詩情溢れる作例である。
     描かれるのは、コローがたびたび訪れていたパリの西郊外の小さな町ヴィル=ダヴレーの風景とされ、産業化されつつあるパリからは失われた、穏やかな田園風景がここには広がっている。前景にいる女性たちは4人とも田舎風の装いをしており、衣服に用いられた明るい色――白、黄、赤、青――は手前の地面の上にも置かれ、緑色の草地を彩っている。

  • 川辺の鹿
    ギュスターヴ・クールベ ≪川辺の鹿≫ 1864年頃 油彩・麻布 73.0×92.0cm

     フランス東部フランシュ=コンテ地方の町オルナンに生まれる。パリのアカデミー・シュイスに通い、1844年のサロン(官展)に初入選。《オルナンの埋葬》《石を割る人々》などの野心作を次々に発表。1855年の万国博美術展に際して主要作品の出品を拒否されたため、自ら個展を開催した。1871年、パリ・コミューンに参加し、コミューン敗北後は入獄、そしてスイスに亡命し、不遇のうちに亡命先で歿した。
     クールベは1857年のサロン(官展)にはじめて狩猟画を出品し、以降狩猟画家として商業的な成功を収める。本作品には狩人に追われて逃げ場を失い、川に飛び込む寸前の追いつめられた鹿の様子が描かれている。暗い森の中から飛び出してきた鹿には一瞬の強い光があたり、首筋や背中が輝いている。描かれた鹿は、イギリスの動物画家サー・エドウィン・ランドシーアによって描かれた鹿の姿にそっくりであり、影響関係が指摘されている。

  • オワーズ河の夏の朝
    シャルル=フランソワ・ドービニー ≪オワーズ河の夏の朝≫ 1869年 油彩・麻布 68.6×100.3cm

     パリに生まれ、同地で歿する。画家だった父に絵の手ほどきを受け、1838年にドラロッシュのアトリエに入り、同年のサロン(官展)に初入選する。1836年のイタリア旅行をはじめ、各地を旅しながら戸外制作を行い、1843年以降たびたびバルビゾンを訪れた。水辺の風景を好んで題材とした彼は、アトリエを備え付けた小舟「ボタン号」を考案し、フランス各地の川に浮かべて制作をおこなった。1860年にはオーヴェール=シュル=オワーズに定住している。戸外制作を重視する態度は、モネをはじめとする印象派の画家たちに影響を与えた。
     本作品には、オワーズ河の風景が描かれており、そこには小さな蒸気船が浮かんでいるが。蒸気機関は十九世紀になって発達した動力であり、この一見のどかな風景のなかにも近代化の波が押し寄せていることが分かる。川の対岸には家が並び、画面右下には洗濯をする女性が二人いる。彼女たちは無駄口をたたかず、黙々と働いているが、洗濯場は女性たちが定期的に集まる社交の場でもあった。

  • ドルトレヒトの月明り
    ヨハン・バルトールト・ヨンキント ≪ドルトレヒトの月明り≫ 1872年頃 油彩・麻布 59.5×102.0cm

     オランダのラトロップで生まれ、フランスのラ=コート=サンタンドレで歿した。オランダのハーグ美術学校で学んだ後、1846年にパリに出て、バルビゾン派の画家たちと交流を持つ。パリで活動して、油絵のみならず版画で、各地の風景を描いた。1862年には腐食銅版画協会会員となり、優れたエッチングを発表した。早くからアルコール中毒にかかり、各地を転々としたのち、グルノーブルの病院で歿した。
     本作品の舞台となるオランダの南ホラント洲の町ドルトレヒトには、川や運河が数多く見られる。本作品でも画面の中央を川(あるいは運河)が占めているおり、何艘もの舟が浮かんでいる。川の両岸には木々が生い茂り、遠景には風車や教会が見えている。厚い雲のあいだに隠れる月が水を照らし、きらきらと輝いている。このような大胆な筆づかいや光と影の表現は、クロード・モネなど、印象派と呼ばれることになる若い画家たちに影響を与えた。

日本の近現代美術
  • 美人招涼図
    野口小蘋 ≪美人招涼図≫ 1887(明治20)年 絹本着色 125.0×43.0cm

     大坂に生まれる。19歳で南画家の日根対山に入門して小蘋と号した。滋賀県の酒造業野口家に嫁ぎ、一時期、営業所のある甲府に滞在した。後に一家で上京してから各種展覧会へ出品、受賞を重ね、1904(明治37)年、女性で初の帝室技芸員に任命された。大正天皇の即位式御大典には献上屏風の揮毫を命ぜられた。
     本作品は、朱色の文机の上に和綴本が積み重ねられていることから、本を読み終えて立ち上がった女性を描いている。団扇は手や着物が透けて見える水団扇、着物は襦袢が透ける笹模様の縦絽と涼しさを醸し出している。頬をほんのりと赤く染めた細面の顔立ちは、あたかもモデルがいるかのような個性的表情で、自画像を推測する向きもあるが特定には至っていない。
     後年は、鮮やかな青緑山水画や気品のある花鳥画を良くした小蘋だが、壮年期に於いて、美人画に並々ならぬ技量を発揮したことを首肯させる代表作である。

  • 夏之霊峰
    横山大観 ≪夏之霊峰≫ 昭和16年頃 絹本着色 53.5×65.8cm

     水戸に生まれる。1889(明治22)年、東京美術学校(現、東京藝術大学)の第1期生として入学し、岡倉天心、橋本雅邦らの指導を受けた。1898(明治31)年に天心とともに在野の美術団体、日本美術院を創設、伝統的な日本画の輪郭線を廃した“朦朧体”を創作した。近代日本画の改革運動を推進し、芸術のみならず社会的にも大きな影響を与えた。
     本作品は、富士の四季の姿を描いた連作のうちの一枚である。雲間からのぞく富士の山頂は鮮やかな青色で表され、わずかに雪が残っている。雲の描写は写実的で、複雑に姿を変える一瞬が捉えられている。大観は「富士は雲煙に包まれた姿が一番いゝ」と語り、しばしば夏の富士を本図のように雲上に見える群青色の山容で表現した。富士は大観が愛した画題のひとつで、富士を描くということは己を描くことだと語るとともに、富士を日本の象徴、形をもって表す日本人の国民性として描いた。生涯に約1500点もの富士山作品を遺したといわれる。

  • 雨期
    近藤浩一路 ≪雨期≫ 1951(昭和26)年 紙本墨画 54.4×61.0cm

     山梨県睦合村(現、南部町)に生まれる。上京して和田英作の門を叩き、東京美術学校(現、東京藝術大学)で洋画を学んだ。卒業後は漫画記者として人気を博し、一方で日本画へ興味を抱きはじめ珊瑚会へ出品した。1919(大正8)年、第6回院展で初入選を果たし、第10回院展出品の《鵜飼六題》、翌11回展《京洛十題》は、水墨画家としての地位を確立する代表作となった。以来、日本各地を周って名所風景を描き続けた。1936(昭和11)年の院展脱退後は、雄大な自然と人々の営み、果実や小動物などを気の赴くままに制作した。
     本作品は、どんよりと立ち込める雨雲のもとで、三人の農婦が黙々と田植えをする情景が描かれる。それほど大きくない画面ながら、田園世界が延々と広がる印象を与える。浩一路は、中国から取寄せた上質の画材と、様々な技法を駆使して常に新しい水墨画を生み続けた円熟期の名作である。

  • 惜春
    望月春江 ≪惜春≫ 1978(昭和53)年 紙本着色 180.0×252.0cm

     西山梨郡住吉村(現、甲府市)に生まれる。東京美術学校(現、東京藝術大学)日本画科で結城素明に学んだ。1928(昭和3)年の第9回帝展と翌第10回展において特選を連続受賞して名が一躍世に広まる。後には文展、日展の審査員をつとめ、日本芸術院賞を受賞した。一方、東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大学)などで教鞭を執り後進を育成した。本県への貢献も高く、山梨美術協会を結成するなどして、1975(昭和50)年に山梨県特別文化功労者として表彰された。
     本作品は、大画面に貼り巡らされた金箔を背景に堂々と咲く満開の八重桜が描かれる。この桜には、様々な時間が同居している。いまだ咲かない蕾と今が盛りの花。かたや盛りのまま、落下する花が2つだけ描かれるのも見逃せない。花鳥画を得意とした春江は、常に写生を怠ることなく真摯に対象と向き合った。作風は伝統的な大和絵、なかでも墨、極彩色、そして金に重きを置いた桃山障壁画の雄渾さや琳派の装飾美に傾倒している。

  • ヨーロッパの危機
    米倉壽仁 ≪ヨーロッパの危機≫ 1936年 油彩・麻布 80.3×100.0cm

     山梨県甲府市に生まれる。1935(昭和10)年の第5回独立美術協会展に初入選を果たし、翌年上京した。1939(昭和14)年には美術文化協会の発足に参加した。戦後は、1951(昭和26)年に同会を脱会、翌年に9人の創立会員でサロン・ド・ジュワンを結成し、以降は同会への出品を続けた。
     本作品は銀座紀伊国屋画廊での個展の出品作。個展に先立ち、米倉は雑誌に「世界の危機」という詩を寄せていたが、同年の7月に始まったスペイン内戦を思わせるものであった。ヨーロッパの古地図とひび割れた頭骸骨のイメージが重複され、その割れ目からは壊れた機械の部品のようなものが飛び出している。馬は、ラッパを持つ手とともに戦場の象徴とされているのかもしれない。画面左奥には動きを封じられた人の姿が見える。西洋の物質文明の崩壊と第二次世界大戦を予兆しているように感じさせる本作は、米倉の戦前を代表する作品であり、日本シュルレアリスム絵画の代表作の一つとも見なされている。

  • サブウェイ No.8
    佐藤正明 ≪サブウェイ No.8≫ アクリル絵具・麻布 110×135.0cm

     山梨県甲府市に生まれる。1970(昭和45)年に渡米、ニューヨークのブルックリン美術館付属美術学校で1974(昭和49)年まで学ぶ。75年から「サブウェイ」のシリーズを始め、その後「ニュース・スタンド」シリーズへとスタイルは変化したが、一貫して人種、言語などニューヨークを象徴するテーマに取り組んできた。
     移住当初、佐藤は地下鉄に乗った際に途方もない不安感に襲われたと書き記していた。1970年代から人体やバス、タクシーなどに円錐を描くようになったが、「サブウェイ」シリーズでは、円錐が地下鉄と駅構内という空間へと広がり、大都市という生命体を表現するに至った。本作品では、通路の上下左右が無数の穴に覆われ、鑑賞者に立つこともままならない感覚を引き起こし、佐藤の感じた不安感が共有される。画面奥の時計の隣には広告も描き込まれており、こうした文字を取り入れる画面作りが後の「ニュース・スタンド」シリーズへと展開していった。

  • 二世中村鴈治郎、紙屋治兵衛(新版舞台之姿絵)
    名取春仙 ≪二世中村鴈治郎、紙屋治兵衛(新版舞台之姿絵)≫s 1951(昭和26)年~1954(昭和29)年 木版 39.0×27.0cm

     山梨県櫛形町(現、南アルプス市)に生まれる。東京美術学校(現、東京藝術大学)日本画科中退。院展等に出品しながら、朝日新聞社で夏目漱石の『三四郎』等多くの新聞小説の挿絵を描く。1916(大正5)年、画博堂主催の「劇画展覧会」展に出品した《初世中村鴈治郎 紙屋治兵衛図》が、同年、渡邊版画展より木版画として出版され、好評を博した。これが契機となって役者絵版画家として歩み始め、昭和の役者絵に新時代を築いた。
     二世中村鴈治郎は、伝統歌舞伎保存会会員の第一次認定を受けた名優である。紙屋治兵衛は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃『心中天網島』の主人公。妻子がある身で遊女の小春と恋仲になり、最後は心中して果てる。人目を忍ぶ頬かむり姿で、道ならぬ恋に悩み苦しむ表情を浮かべる治兵衛。その表情と目元や口元の化粧が相まって、独特の色気が漂う艶のある作品となっている。

  • 石の花(赤)
    萩原英雄 ≪石の花(赤)≫ 1960年 木版画 87.0×58.0cm

     山梨県甲府市に生まれる。1938(昭和13)年に東京美術学校(現、東京藝術大学)油画科を卒業。1953(昭和28)年より肺結核のため3年間療養生活を送り、この頃より独学で版画制作を始める。1960(昭和35)年に東京国際版画ビエンナーレに出品し、神奈川県立近代美術館賞を受賞。62年にはスイスのルガノ国際版画ビエンナーレでグランプリを受賞した。その後も数々の国際展で受賞を重ねた。木版による抽象的なイメージを表現し続け、新たな技法も多数生み出した。
     本作品は第2回東京国際版画ビエンナーレの受賞作品。萩原の開発した両面摺りの技法が使われており、紙の裏面に摺られた濃紺が表面に滲み出し、黒く細かな線が画面全体に広がるとともに、赤の色調もまた深みのあるものになっている。萩原は木版画の制作にあたって油彩のような色の層と画面の奥行きを出すことを目指していた。自然の事象を独自のイメージに捉え直し、深い色彩の木版画によって表現した作品である。

  • 凍れる歩廊(ベーリング海峡)
    深沢幸雄 ≪凍れる歩廊(ベーリング海峡)≫

     山梨県南巨摩郡増穂町(現、富士川町)に生まれる。1949(昭和24)年に東京美術学校金工科を卒業後、独学で銅版画を学ぶ。1957(昭和32)年に日本版画協会展で日本版画協会賞を受賞。1963(昭和38)年にメキシコ国際文化振興会の依頼でメキシコに渡り銅版画技法を教え、以後色彩版画を多数制作するようになる。1972(昭和47)年にフィレンツェ国際版画ビエンナーレでバンコ・デ・ローマ賞を受賞するなど国際的に活躍する。
     深沢は70年代半ばの中米への旅でインディオの村を訪れ、インディオとアジア人とはモンゴロイドという共通の祖先の末裔であるという思いを深め、〈新大陸のモンゴロイド〉というテーマを思いつく。本作はその代表作であり、氷河期に凍ったベーリング海峡を渡ってアジアから新大陸へと移動したモンゴロイドが表現されている。1970年代を通して、壮大な人類史をテーマに、物語性豊かな作品が多数制作された。

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