19世紀のフランスで活躍したギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は、伝統的な美術や旧来の政治体制に反発した前衛的な画家として知られています。人物や物を理想化して描いたり、天使など想像上の存在を描いたりするのではなく、自らの目で見た「あるがまま」の現実の姿を絵に描きとめたレアリスム(写実主義)の画家として、時に政治批判を含む作品やスキャンダラスな内容の作品を発表し、人々の注目を集めました。一方、クールベは、故郷であるフランシュ=コンテ地方の山々や森、そこに棲息する動物たちや、フランス北部のノルマンディーの海を繰り返し描きました。山々に囲まれて育ったクールベは22歳で初めて海を目にして感動し、特に1860年代以降は海の風景画を好んで描いて、当時の人々から賛辞を得ました。クールベの海は、それまでの時代に描かれていた物語性や感傷性に富む海とも、後の世代が描いた海水浴の情景などレジャーの場としての海とも異なる視点で描かれています。
本展覧会では、クールベの海の絵画を中心として、故郷を描いた風景画や狩猟画、またモネやミレーなど他の画家たちが描いた海を含む約70点を一堂に展示することで、クールベの風景画にみられる特徴を紹介し、クールベが遺した足跡を探ります。
ギュスターヴ・クールベ 《波》 1869年 愛媛県美術館蔵
本章では、クールベ以前の時代の海の表現を紹介します。
西洋絵画において海が絵画の主役として描かれるようになったのは18世紀以降のことです。それ以前は聖書や神話などの物語や比喩と結びつけられたり、港湾風景や海戦の背景として描かれたりしていました。18世紀になると、自然美に開眼したイギリス人たちが、大海原を前にしたときに感じるような畏れにも似た高揚感を「崇高」ととらえ、クロード=ジョゼフ・ヴェルネが描く嵐の海が人気を博しました。さらに、荒々しく未完成なものに「絵画的な美ピクチャレスク」を見出す新たな美意識が生まれると、イギリス国内で絵になる風景を探し求める「ピクチャレスク・ツアー」が流行します。例えばウィリアム・ターナーが挿絵を提供した『ピクチャレスク―イングランド南海岸』は、いわゆるガイドブックとして多くの人々を海辺へと誘いました。イギリスで生まれた「ピクチャレスク」の概念は19世紀初頭にフランスにも伝播します。1820年から刊行された『古きフランスのピトレスクでロマンティックな旅』では初めの2巻がフランス北西部の海沿いの地ノルマンディーにさかれ、数十年後にクールベなど多くの画家を惹きつける土台を作りました。
クロード=ジョゼフ・ヴェルネ 《嵐の海》1740年頃 静岡県立美術館蔵
クールベは、フランスとスイスの国境にあるジュラ山脈の渓谷にあるオルナンで生まれました。山に囲まれた地に育った彼にとって、海は身近な存在ではありませんでした。1841年、22歳にして初めて海を見た彼は、「谷の住民には奇妙なものです」と両親に書き送っています。
およそ20年後の1860年代後半、クールベはノルマンディーの海に魅了され、トゥルーヴィル、ドーヴィル、エトルタなどに滞在しました。クールベは、浜辺にいるはずの観光客を描かず、海と海岸のみを切り取った「海の風景画」を制作しました。海の風景画はクールベの作品の中でも当時から人気が高く、総点数は100点以上にもなります。
1869年、クールベは有名なアーチ形の断崖があるエトルタの地で、波だけを描いた新たな海の表現を生み出します。パレットナイフを使って絵の具を盛り上げ、躍動感に満ちた波の一瞬を切り取った描写は、後の画家たちに大きな影響を与えました。さらに1870年のパリのサロン(官展)では2点の「海の風景画」を出品し、大きな成功を収めます。
翌年に世界初の労働者政権ともいわれるパリ・コミューンに参加したクールベは、その後スイスへと亡命し、スイスの湖にかつて見た海を重ね合わせながら、1877年に58歳で亡くなりました。
ギュスターヴ・クールベ 《エトルタ海岸、夕日》
1869年 新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵
ギュスターヴ・クールベ 《波》1870年 オルレアン美術館蔵
19世紀フランスにおいて、海は人々にとって急速に身近な存在となります。そのことを最も象徴的に表しているのが、レジャーの場としての浜辺の誕生です。イギリスで当初治療のために流行した海水浴が1820年代にフランスにも導入されると、北部の英仏海峡に面した漁村がリゾート地として開発され、19世紀半ばにはパリから鉄道が敷設され、貴族や上層ブルジョワジーの人気の場所となりました。
画家たちはリゾート地へと集う富裕層の需要に応えるべく、海辺を主題とした多くの風景画を制作しました。オンフルール出身のウジェーヌ・ブーダンは、常にノルマンディー地方を活動の中心とし、浜辺に集う婦人たちの姿を描き、人気を博します。多様な雲の様子を描いたブーダンの絵画、朝日や夕日を描いたクロード・モネの風景画は、都会から来た人々の趣味と一致するものだったのです。一方、海の開発は漁などで生活していた人々に変化を強要します。画家たちの視線は海辺に生きる人々へも向けられています。
ブーダン 《浜辺にて》 個人蔵
モネ 《アンティーブ岬》 1888年 愛媛県美術館蔵
山に囲まれて育ったクールベにとって、緑豊かな自然は身近な存在でした。クールベは頻繁に帰郷し、ジュラ山脈の切り立った岩や深い森に囲まれた渓谷など、厳しい自然の姿を描いています。野性味溢れる風景を切り取った作品は、都会の人々を驚かせると同時に、地方の有力者に好んで購入されました。クールベの風景画には、急速に産業化を進める都会に対する、自然豊かな地方の独立の意志が窺えます。
西洋絵画の伝統では、古代ローマを思わせるイタリアの風景など、理想化された風景画が描かれてきましたが、19世紀に入ると、画家たちは自分たちの目の前にある身近な風景を描こうと試みました。パリ近郊のフォンテーヌブローの森へと写生に出かけたバルビゾン派の画家たちは、その代表的な存在です。クールベもまた、故郷の特徴ある自然を自らの目を通して描き出したのです。
ギュスターヴ・クールベ 《フランシュ=コンテの谷、オルナン付近》
1865年頃 茨城県近代美術館蔵
ギュスターヴ・クールベ 《岩のある風景》
ポーラ美術館蔵
クールベは毎年秋に故郷オルナンに戻り、近郊の森で狩りを楽しみました。そして自分の経験をもとに狩猟をテーマとした作品を多数描き、1850年代後半から60年代に「海の風景画」と同じく主要なジャンルになりました。1861年には狩猟の場面を描いた3点の大型作品をサロンに出しています。
クールベが描く動物は、同時代のバルビゾン派の画家たちが描いた家畜の動物たちとは異なり、荒々しく力強いもので、支配に脅かされながらも、それに抗う独立した野生の姿として表現されています。
ギュスターヴ・クールベ 《雪の中の鹿のたたかい》
1868年頃 ひろしま美術館蔵