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生誕100年 山下清展-百年目の大回想

会期2025年9月20日(土)~11月24日(月・振)


《長岡の花火》1950(昭和25)年 貼絵
山下清作品管理事務所蔵
© Kiyoshi Yamashita / STEPeast 2024




 生誕100年を記念し、「放浪の天才画家」と言われた山下清の画業と人生を紹介します。驚異的な記憶力と集中力を併せもつ山下は、旅先で見た風景を細部まで正確に思い出すことができました。その記憶に基づいて、手で細かくちぎった無数の色紙を圧倒的な超絶技巧により貼り合わせることで、山下は独自の風景画を生み出しました。
 本展は、幼少期の鉛筆画、初期から晩年までの貼絵、油彩、水彩画、ペン画、陶磁器の絵付けなど約190点を展示し、山下芸術の豊かさ、奥深さを余すところなく紹介することで、芸術家・山下清の真の姿を伝えようとする展覧会です。あわせて、放浪中に使用したリュックサックや浴衣などの関連資料も展示し、その人物像にも迫ります。

名称
生誕100年 山下清展-百年目の大回想
会期
2025年9月20日(土)~11月24日(月・振)
開館時間
9:00~17:00(最終入場16:30まで)
会場
特別展示室
休館日
9月24日(水)・29日(月)
10月6日(月)・14日(火)・20日(月)・27日(月)
11月4日(火)・10日(月)・17日(月)
観覧料
一般 1,000円(840円) 大学生 500円(420円)※大学生は学生証を提示
※( )内は20名以上の団体料金、前売券、県内宿泊者割引料金
前売券は2025年8月20日(水)~9月19日(金)まで山梨県立美術館で販売(休館日を除く開館時間内)
【次の方は無料】
・高校生以下の児童・生徒(高校生は学生証を提示)
・県内在住65歳以上(年齢が分かるものを提示)
・障害者とその介護者(障害者手帳を提示)
・11月20日(木)の県民の日はどなたでも無料
主催
後援
協力
主催:山梨県立美術館、山梨日日新聞社・山梨放送
特別協力:文化庁、紡ぐプロジェクト、読売新聞社
後援:NHK甲府放送局、テレビ山梨、テレビ朝日甲府支局、朝日新聞甲府総局、毎日新聞甲府支局、読売新聞甲府支局、産経新聞甲府支局、共同通信社甲府支局、時事通信社甲府支局、山梨新報社、日本ネットワークサービス、エフエム富士、エフエム甲府
協力:山梨交通 特別協力:山下清作品管理事務所 企画協力:ステップ・イースト
山下清略年譜


制作中の山下清

■1922(大正11)年
3月10日、東京市浅草区田中町に生まれる。

■1925(大正14)年 3歳
重い病気により後遺症が残る。

■1934(昭和9)年 12歳
千葉県の養護施設「八幡学園」に入園。学園では「ちぎり絵」に取り組む。それが後の「貼絵」へと発展する。

■1940(昭和15)年 18歳
11月18日、突然、放浪の旅に出る。時折、母の家や八幡学園に戻り、脳裏に焼き付いた旅先での風物を貼絵に描いた。

■1953(昭和28)年 31歳
アメリカのグラフ誌『ライフ』が清の作品を見て驚嘆し、放浪中の清を捜し始める。

■1954(昭和29)年 32歳
1月10日、鹿児島で清が発見され、弟・辰造が鹿児島まで清を迎えに行く。清の放浪の旅は幕を下ろしたが、実際にはその後もしばらく放浪を試みていた。

■1956(昭和31)年 34歳
東京の百貨店で作品展が開催される。lヶ月の入場者数が80万人を越す大きな反響があった。

■1957(昭和32)年 35歳
弟・辰造と世田谷に住み始める。以後、他界するまで弟家族と同居し続けた。

■1965(昭和40)年 43歳
ライフワークとして最終的には貼絵にすることを夢見ていた「東海道五十三次」の素描による制作を開始する。

■1969(昭和44)年 47歳
「東海道五十三次」の取材を終えた清は、高血圧による眼底出血を起こす。以後、自宅での療養生活を続けた。

■1971(昭和46)年 49歳
7月10日の夜、突然の脳溢血で倒れる。発作後意識が戻らず、7月12日朝に永眠する。
最期の言葉は「今年の花火見物はどこに行こうかな」であった。
享年49。

展示予定作品


第1章
山下清の誕生―昆虫そして絵との出会い

■画家・山下清の誕生
■山下清と昆虫

 1922(大正11)、大橋清治・ふじの長男として誕生した大橋清。後の「山下清」です。幼少期の清は、病気による後遺症を抱えていたために友達がおらず、学校から帰ると一人で絵を描いて遊ぶ孤独な子供だったといいます。
 1934(昭和9)年、12歳のときに千葉県の養護施設「八幡学園」に入園。学園では「ちぎり絵」に取り組みます。昆虫を捕まえては観察して描くことを得意としていた清。最初は単純な構図の作品でしたが、次第に進歩を遂げ、技術の向上と表現力を身につけていきました。それが後の「貼絵」へと発展します。


《花火》 1930-1932(昭和5-昭和7)年頃 鉛筆画




《蝶々》 1934(昭和9)年 貼絵




第2章
学園生活と放浪への旅立ち

■学園での日々
■創作の礎となった静物画
■放浪へと駆り立てた戦争
■放浪へ
■放浪期の貼絵
■「放浪を辞める誓い」

 清は学園で貼絵制作に取り組み続けます。1937(昭和12)年に開催された学園の子供たちの作品展で清の貼絵は注目を集めます。ところが学園生活が6年を迎えた1940(昭和15)年、18歳の清は突然学園から姿を消しました。これが以降、何度も繰り返されることになる「放浪の旅」の始まりです。
 清は足の向くまま気の向くまま、自由な放浪を続けますが、時折、家や学園に舞い戻り、旅先での風景を貼絵や日記に残しました。清の記憶力は並外れており、まるで目の前にその風景があるかのように正確な描写をしたといいいます。


《ともだち》 1938(昭和13)年 貼絵




《学園附近の景色》 1943(昭和18)年 貼絵 個人蔵




第3章
画家・山下清のはじまり―多彩な芸術への試み

■油彩への挑戦
■ペン画・点と線の芸術
■進化する貼絵

 画家としてのスタートを切った清は、「山下清ブーム」に沸く中、画家としての新たなる仕事に挑戦します。この時期は、油性マジックペンによるペン画でその才能を発揮しました。描き直しが難しいマジックペンですが、清はその困難さをものともせずに作品を仕上げました。
 また、この時期、清は油彩作品にも取り組んでいます。しかし、作品の数は少なく、現存作品も数えるほどしかありません。油彩に馴染めなかった理由は単純で、絵具の乾きが遅いため、彼の性格から乾くのを待ちきれなかったことにあるようです。初期の油彩作品はチューブからそのまま絵具をカンヴァスへ絞り出した点描に近いもので、貼絵を思わせるタッチが特徴です。


《群鶏》 1960(昭和35)年 油彩




《昇仙峡》 1957(昭和32)年 ペン画 個人蔵




第4章
ヨーロッパにて―清がみた風景

■ヨーロッパ風景・貼絵
■ヨーロッパ風景・水彩画とペン画
■ヨーロッパ風景・陶磁器

 「ぼくは日本中ほとんど歩いてしまったのでどうしても外国を見物したい。 」そう語る清は、1961年、スケッチブックを抱え、初めてのヨーロッパの旅に出かけました。約40日間で9ヶ国を巡る慌ただしい旅でしたが、旅先で20点余りのスケッチを描き上げました。それらの絵は帰国後に貼絵、水彩画、ペン画などの作品として発表されました。
 水彩画はペン画の上に水彩絵の具で着彩する手法で描かれており、当時、貼絵同様に高い評価を受けました。清にとってこの独自の水彩画は、新たなる試みであり、画業の幅を広げるものでした。
 貼絵はこれまで以上に写実的で、細かくちぎった色紙を職人技ともいえる繊細なタッチで貼り込んでいるのが特徴です


《パリのエッフェル塔》1961(昭和36)年 水彩画




《パリのサクレクール寺院》 1962(昭和37)年 貼絵




第5章
円熟期の創作活動

■才能が開花した陶磁器
■清が愛した富士山
■遺作・東海道五十三次

 画家として各地で開かれる自身の展覧会に出向いた清は、その土地の窯元へ出かけて行って陶磁器の絵付けに挑戦しました。清にとって陶磁器の絵付けはそれほど難しいものではなく、すぐに自分のものとしました。絵付けで描かれる図案は、過去に取り組んだ題材が中心で、清らしさが存分に発揮されたものでした。多種多様な作品が全国の窯元で作られ、数多くの作品が残されました。陶磁器の絵付けはペン画と並び、晩年の創作の中心となりました。
 1965(昭和40)年から4年をかけて、清はライフワークとして最終的には貼絵にすることを夢見ていた「東海道五十三次」の取材を行います。それは清のペースでゆっくりと続けられた旅でした。ところが、その「東海道五十三次」をアトリエで描いてたときに病気となり、以降は療養生活を余儀なくされます。そしておよそ2年後の1971(昭和46)年、「今年の花火見物はどこに行こうかな」という言葉を残して永眠します。享年49でした。


《花もも(九谷焼)》 1956(昭和31)年 色絵蓋物




《東海道五十三次・富士(吉原)》 制作年不詳 版画




次回の特別展

日本画 それぞれの挑戦(仮称)
2025年12月6日(土)~2026年2月1日(日)

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