
本展は戦後日本を代表する現代美術家、中西夏之(1935~2016)の没後初の大規模な個展です。中西は高松次郎および赤瀬川原平とともに前衛美術家集団「ハイレッド・センター」での活動および土方巽らとの舞踏での協働を経て、1960年代後半からは独自の思考に基づいた数々の絵画連作を制作しました。中西が絵画のありようについて残した言葉「緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置」を道しるべに、ぜひ作品をご堪能ください。また中西は1990年から2007年まで、山梨県大月市にアトリエを設けていました。本展では県とゆかりのある中西夏之を当館で初めて大きく取り上げます。
1.没後10年の節目の年に開催する、没後初の大規模な個展
中西夏之の大規模な個展は生前、東京都現代美術館(1997年)、愛知県美術館・愛媛県美術館(2002-03年)、 、渋谷区立松濤美術館(2008年)、 DIC川村記念美術館(2012年)などにおいて、定期的に開催されてきました。本展は作家没後10年の節目の年に開催される、没後初の大規模な個展となります。本展は国立国際美術館(大阪)を皮切りに、当館、セゾン現代美術館(長野県)、茨城県近代美術館へと巡回します。
2.初期から晩年までの作品を網羅した回顧展
中西は高松次郎および赤瀬川原平と創設した「ハイレッド・センター」での活動、土方巽らとの舞踏の協働を経て、1960年代後半以降は〈山頂の石蹴り〉、〈紫・むらさき〉、〈中央の速い白〉といった独自の思考に基づいた絵画連作に没頭していきました。本展では学生時代に描いた最初期から亡くなる前年に描かれた最晩年までの作品を展示し、作家の全体像を浮かび上がらせます。
3.大月市にアトリエを構えるなど、山梨との深いゆかり
中西は1990年から、最後のアトリエとなった伊豆へと2007年に移住するまで、15年ほど山梨県大月市にアトリエを構え、そこで数多くの絵画作品を生み出しました。そのアトリエは現在「土方・中西メモリアル猿橋倉庫」となり、1960年代に協働した土方巽の舞踏資料の収蔵場所、およびパフォーマンス・スペースとして引き継がれています。

1935年 東京に生まれる
1958年 東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業
1959年 絵画〈韻〉連作を開始
1963年 高松次郎、赤瀬川原平とともに「ハイレッド・センター」創設
1965年 土方巽らとの舞踏での協働が始まる
1968年~ 〈山頂の石蹴り〉、〈弓形が触れて〉、〈紫・むらさき〉、
〈ℓ 字型-左右の停止〉などの絵画連作を制作
1990年 山梨県大月市に作業場を設ける
以降〈中央の速い白〉、〈大括弧〉、〈Lm, T 揺れる足場〉
などの絵画連作を制作
1996年 東京藝術大学美術学部教授就任
2003年まで教鞭をとる
2007年 伊豆高原にアトリエを構える
2016年 没
中西夏之は、1950年代の後半より、画家としての活動を本格化させました。東京藝術大学絵画科油画専攻卒業後、ハーバート・リード著『イコンとイデア 人類史における芸術の発展』の中に出てくる「内触覚」という概念を根底に、しばしば「T字型」とも呼ばれる形態が無数に見られる〈韻〉連作を発表しました。また安保闘争が収束してしばらく経った1962年以後、中西はしばしば、「直接行動」とも呼ばれるパフォーマンスを東京の街中で繰り広げ、同世代の美術家である高松次郎、赤瀬川原平とともに「ハイレッド・センター」を結成してからは、こうした反芸術的な傾向に拍車がかかりました。《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》や、卵形のポリエステル樹脂の中に様々なものを封入した〈コンパクト・オブジェ〉が制作されたのもこの時期にあたります。一方、同じ頃に舞踏家の土方巽と出会い、やがて協働を重ねていくことによって、中西は身体や場所に対する関心を深めていきました。このように、絵画やパフォーマンスや舞台芸術などの、異なる諸領域間を自由に往来したことを基礎に、中西はその後、絵画をめぐる独自の思考を展開することになりました。


反芸術ならびに舞踏という迂回路を経て、中西は1960年代後半からは再び絵画と向き合うようになり、絵画の成立根拠たる「色」と「形」、そしてそれらを受け止める「画面」についての、独自の思考を練り上げていきました。〈K.T像〉の連作では、赤と黄の中間にあるオレンジと黄と青の中間にある緑という2つの色に特別な意味を与え、互いに惹かれあいながら、同時に斥けあうような関係にあるとしました。また同連作においてモデルは着ているシャツを左右に開き、その内側を見せていますが、その仕草は縦に切り開かれ、伸ばされたかつての円筒こそが画面の形なのだと仮定した中西の絵画思考を示唆するとも考えられます。一方、この頃の中西が好んで描いた正三角形は、開いた両手の、親指同士と人差し指同士を合わせたときにできる図形ゆえ、身体に内在する幾何学形態とみなされています。有機的であり、また幾何学的でもあるという、両極のあわいに位置づけられるその形態は、1969年に始まる連作〈山頂の石蹴り〉の主要な構成要素にもなりました。病み上がりの虚脱状態で高台にあるアトリエまで通って描いたというこの連作において、彼は描くことの不安定さそれ自体に焦点を当てています。


1973年頃、曲線を描くための道具である鉄道定規を知ったことをきっかけに、中西は画布の縦辺の直線が巨大な曲線の一部でありうる可能性を見出しました。円弧への意識は、1978年の連作〈弓形が触れて〉に取り付けられた弓として現れました。また本連作は中西にとって大きな転機になりました。中西は眼前の絵の位置を、自我や地球のスケールを超えた第三項から導き出すコンセプトを創案し、その具体化の方法を本連作によって手に入れました。
続く連作〈arc・ellipse〉では、画布を天井から一点吊りにし、長い柄の筆を用いて描くという方法が採られ、円の中心から画面までの遠さとそれに伴う不安定さを可視化しようとしました。またこの頃から画面上に無数の「×」印が現れました。また「M字型」や「ℓ字型」を画面に浮かび上がらせつつ、できた空隙から顔をのぞかせた紫は、オレンジや緑とともに中西にとっての独自の三原色となりました。一方、山梨県大月市にアトリエを設けた1990年前後、彼は〈大括弧〉や〈中央の速い白〉という連作を手がけるにあたって、「白よりも白い色」とみなした明るい黄緑色を用いました。



1990年代に入ってからの中西の作品には、たとえば「足元」や「揺れる足場」など、地面に関わる言葉が見られます。中西はかねてより、日本列島を「一隻の小舟」に見立て、その不安定な足場の上で営まれる絵画制作に思いを馳せてきました。阪神淡路大震災と同年の個展で、中西は「絵画場」なる概念を提示し、垂直に立つ画面と、水平に広がる地面に対する思考をまとめました。両者がともに持つ、覚束なさの感覚は、時を同じくして開始される〈着陸と着水〉というインスタレーション連作の主題になりました。1975年の、開いた本を想起させる作品《カーボランダム・ホワイトランダム》に淵源するというその実践は、2011年3月11日の、 東日本大震災を契機に手がけられた《着陸と着水XIV 五浦海岸》(茨城会場のみ展示)に至るまで、断続的にくり返されています。
太平洋を見晴らす、静岡県の伊豆高原へと転居した2007年以後も、中西は「地塗反転」という方法や、〈擦れ違い〉という主題によって、「像の発生と消滅」の実現を試みました。来し方と行く末の、あるいは遠さと近さの、決して一つにまとまることのない緊張状態こそが、そこでは目指されています。


