生誕100年を記念し、「放浪の天才画家」と言われた山下清の画業と人生を紹介します。驚異的な記憶力と集中力を併せもつ山下は、旅先で見た風景を細部まで正確に思い出すことができました。その記憶に基づいて、手で細かくちぎった無数の色紙を圧倒的な超絶技巧により貼り合わせることで、山下は独自の風景画を生み出しました。
本展は、幼少期の鉛筆画、初期から晩年までの貼絵、油彩、水彩画、ペン画、陶磁器の絵付けなど約190点を展示し、山下芸術の豊かさ、奥深さを余すところなく紹介することで、芸術家・山下清の真の姿を伝えようとする展覧会です。あわせて、放浪中に使用したリュックサックや浴衣などの関連資料も展示し、その人物像にも迫ります。
1922(大正11)、大橋清治・ふじの長男として誕生した大橋清。後の「山下清」です。幼少期の清は、病気による後遺症を抱えていたために友達がおらず、学校から帰ると一人で絵を描いて遊ぶ孤独な子供だったといいます。
1934(昭和9)年、12歳のときに千葉県の養護施設「八幡学園」に入園。学園では「ちぎり絵」に取り組みます。昆虫を捕まえては観察して描くことを得意としていた清。最初は単純な構図の作品でしたが、次第に進歩を遂げ、技術の向上と表現力を身につけていきました。それが後の「貼絵」へと発展します。
清は学園で貼絵制作に取り組み続けます。1937(昭和12)年に開催された学園の子供たちの作品展で清の貼絵は注目を集めます。ところが学園生活が6年を迎えた1940(昭和15)年、18歳の清は突然学園から姿を消しました。これが以降、何度も繰り返されることになる「放浪の旅」の始まりです。
清は足の向くまま気の向くまま、自由な放浪を続けますが、時折、家や学園に舞い戻り、旅先での風景を貼絵や日記に残しました。清の記憶力は並外れており、まるで目の前にその風景があるかのように正確な描写をしたといいいます。
画家としてのスタートを切った清は、「山下清ブーム」に沸く中、画家としての新たなる仕事に挑戦します。この時期は、油性マジックペンによるペン画でその才能を発揮しました。描き直しが難しいマジックペンですが、清はその困難さをものともせずに作品を仕上げました。
また、この時期、清は油彩作品にも取り組んでいます。しかし、作品の数は少なく、現存作品も数えるほどしかありません。油彩に馴染めなかった理由は単純で、絵具の乾きが遅いため、彼の性格から乾くのを待ちきれなかったことにあるようです。初期の油彩作品はチューブからそのまま絵具をカンヴァスへ絞り出した点描に近いもので、貼絵を思わせるタッチが特徴です。
「ぼくは日本中ほとんど歩いてしまったのでどうしても外国を見物したい。 」そう語る清は、1961年、スケッチブックを抱え、初めてのヨーロッパの旅に出かけました。約40日間で9ヶ国を巡る慌ただしい旅でしたが、旅先で20点余りのスケッチを描き上げました。それらの絵は帰国後に貼絵、水彩画、ペン画などの作品として発表されました。
水彩画はペン画の上に水彩絵の具で着彩する手法で描かれており、当時、貼絵同様に高い評価を受けました。清にとってこの独自の水彩画は、新たなる試みであり、画業の幅を広げるものでした。
貼絵はこれまで以上に写実的で、細かくちぎった色紙を職人技ともいえる繊細なタッチで貼り込んでいるのが特徴です
画家として各地で開かれる自身の展覧会に出向いた清は、その土地の窯元へ出かけて行って陶磁器の絵付けに挑戦しました。清にとって陶磁器の絵付けはそれほど難しいものではなく、すぐに自分のものとしました。絵付けで描かれる図案は、過去に取り組んだ題材が中心で、清らしさが存分に発揮されたものでした。多種多様な作品が全国の窯元で作られ、数多くの作品が残されました。陶磁器の絵付けはペン画と並び、晩年の創作の中心となりました。
1965(昭和40)年から4年をかけて、清はライフワークとして最終的には貼絵にすることを夢見ていた「東海道五十三次」の取材を行います。それは清のペースでゆっくりと続けられた旅でした。ところが、その「東海道五十三次」をアトリエで描いてたときに病気となり、以降は療養生活を余儀なくされます。そしておよそ2年後の1971(昭和46)年、「今年の花火見物はどこに行こうかな」という言葉を残して永眠します。享年49でした。