本年は、“最後の文人”と称される富岡鉄斎が、大正13(1924)年に没して100年にあたります。鉄斎は、山梨の豪商「十一屋」野口家との親交が深く、明治8(1875)年には、甲府柳町の野口邸を拠点に生涯で唯一の富士登山を行いました。登頂から間もない時期に野口家の当主、正忠(号、柿邨)のため描いた《富士山巓麓略図》は、鉄斎の富士山画の中でも初期の代表作とされています。その他にも、数多くの作品を野口家のために描き、現在、野口コレクションとして当館へ寄贈、または寄託されています。
一方、野口家は、文人画(南画)家の作品を数多く収集し、現在も伝えられています。与謝蕪村、谷文晁、椿椿山ら大家の作品をはじめ、正忠がパトロンとして交流した日根対山、対山とネットワークにあった岡田米山人と子の半江、貫名海屋、中西耕石ら、そして野口家へ嫁ぎ、後に近代を代表する南画家となった野口小蘋など、江戸後期から近代にいたる文人画(南画)を概観することができます。さらに同コレクションには、野口家と交流のあった文人たちの書の優品も伝わっています。
本展では、これら野口コレクションにあわせて当館の収蔵する山梨ゆかりの近代南画を紹介することで、鉄斎をはじめとする豊穣な文人の世界を堪能していただきます。
当館には、60点余りにのぼる富岡鉄斎の書画が収蔵されており、それらの多くは野口家コレクションである。鉄斎と野口家の関係は、当主、正忠(1822~1893)との親交に始まり、正忠没後も続いた。90歳近くまで生きた鉄斎の画業のうち、野口家には、30歳代から50歳代の作品が多く、それらからは、長い画業の中で比較的早い時期、まさに意気揚々と絵画に勤しんだ壮年期の画業を垣間見ることができる。
明治8(1875)年、甲府柳町の野口邸を拠点に行った富士登山は、生涯唯一であり、後に数々の富士山図を残した鉄斎において貴重な体験であった。《富士山巓麓略図(ふじさんてんろくりゃくず)》と《登嶽巻(とうがくかん)》は、その時の感動が手に取るように伝わる秀作で、かつ最も早い鉄斎の富士山図として重要な意味を持つ。その他にも、山水画や道釈人物画、花鳥画など、様々な主題を描いた作品が伝わり、当館に寄贈、寄託されている。
古くから中国における官吏登用の制度として清時代まで続いた科挙。それによって登用された上級官吏は、多忙な日常から離れて、深山幽谷に遊び、書画を嗜み、音曲を奏でるなどして、悠々自適な生活を送ることを理想とし「文人」と称された。日本においては本来の「文人」は存在しないものの、中国の文人生活に憧れ、実践した武士や近代政治家たちを文人と呼んだ。また中国風の山水花鳥画を得意とし、生業とする画家は文人画家、または南画家と呼ばれ、江戸時代中期から近代にいたり隆盛を見た。
山梨県立美術館は、現、甲斐市出身と推定されている高芙蓉、豪商野口家に嫁いだ野口小蘋とその子小蕙、後に洋画家としても活躍した中丸金峰(精十郎)、現北杜市出身で長く県内で活躍した三枝雲岱ら、山梨ゆかりある文人画(南画)家の作品のみならず、野口家から寄贈、寄託を受けた与謝蕪村や谷文晁の大家をはじめ、野口家と親交のあった日根対山とそのネットワークを形成していた岡田米山人、半江親子、中西耕石といった著名な文人画(南画)家の作品を収蔵している。
本章では、これらのうち優れた作品を紹介するとともに、野口家に伝わった頼山陽、伊藤博文ら文人の書蹟を展観する。