第1章「夜明けの先觸れ」
シュルレアリスムの衝撃 1920年代~30年代初め
米倉壽仁 《ジャン・コクトオの「夜曲」による》
1979年(原画1931年) 山梨県立美術館蔵
米倉は青春時代に文学を志し、シュルレアリスム的な傾向のある詩作もおこなっていましたが、1931年に《ジャン・コクトオの「夜曲」による》で二科展にデビューしたことをきっかけに画家を志すようになりました。
第1章では、若き米倉が手がけた絵画や詩、雑誌の装幀などを紹介します。また、米倉が影響を受けたサルバドール・ダリやマックス・エルンストといった海外のシュルレアリスム画家などの作品もあわせて紹介します。
第2章「透明ナ歳月」
シュルレアリスム絵画の模索 1930年代後半~40年代初め
米倉壽仁 《ヨーロッパの危機》
1936年 山梨県立美術館蔵
米倉壽仁 《モニュメント》
1937年 山梨県立美術館蔵
画家を志すようになった米倉は、上京して前衛画家たちが集まるグループに入ります。シュルレアリスム絵画を日本に紹介した福沢一郎らが活躍する「独立美術協会」などへの参加を経て、福沢らと新たに「創紀美術協会」「美術文化協会」を創設し、前衛画家の一員として精力的な創作活動をおこないます。1930年代後半、戦争の足音とともに自由な芸術に対する締めつけが厳しくなる中、画家仲間とともに前衛芸術の可能性を信じて数多くの作品を描きました。この頃の作品には特にサルバドール・ダリの影響が色濃く見られます。
第3章「振動する振子」
前衛画家たちとの交流 1930年代後半~40年代
米倉の周囲には多くの前衛画家がいました。米倉が師と仰いだ福沢一郎をはじめ、「美術文化協会」などで交流した北脇昇、寺田政明、浜松小源太、眞島建三、古沢岩美といった画家たちです。当時、前衛芸術家たちに対して寛容であったとは言えない社会情勢の中で、画家たちはそれぞれの表現を追究しました。なかには戦争や病で早世した画家もいますが、作品にはまぎれもない命の痕跡が残されています。
第4章「美術は人間性である」
戦後の変化 1940年代後半~50年代
米倉壽仁 《黒い太陽》
1954年 山梨県立美術館蔵
戦中は戦争に関連する作品も描き、疎開して戦禍をくぐり抜けた米倉は、戦後すぐ東京に戻り創作活動を再開します。「美術文化協会」を脱会した米倉は、画家グループ「サロン・ド・ジュワン」を結成し、1952年から晩年近くまでこの団体を基盤として制作活動をおこないました。戦後の作品からはダリの影響が次第に影をひそめ、より複雑な画面構成をもつ作品や、仏教的要素をモチーフとした作品など戦前とは異なる傾向の作品も描かれました。
第5章「和して同ぜず」
サロン・ド・ジュワンの画家たち 1950年代
米倉が中心となって結成した「サロン・ド・ジュワン」にはさまざまな画家が集いました。「美術文化協会」の頃からの仲間である眞島建三や堀田操、同郷の濱田稔といった画家たちが、米倉とともに戦後の新しい芸術を模索しました。特に50年代には美術批評家たちの注目を集め、さまざまな試みがおこなわれました。
第6章「人生より芸術は永い」
終わらない探究 1960年代以降
米倉壽仁 《白雲抄》
1966年 山梨県立美術館蔵
60年代以降は抽象化の傾向も見られるようになりますが、最後まで完全な抽象絵画に移行することはありませんでした。具体的な事物ではなく、文字や幾何学的な図形や線を多用したり、白い絵具に厚みをもたせてニュアンスを出してみたりと、絵画表現の探究は終わりませんでした。「サロン・ド・ジュワン」への出品を継続したほか、「山梨美術協会」や「ボロー」といった郷里の絵画団体の発展にも寄与しました。1979年、74歳の年に当館で個展が開催され、画業の振り返りがなされましたが、その後も晩年に至るまで制作を続けました。